豊日別命…豊前豊後の住民の守護神(豊日別国魂神)
伊邪那伎命・伊邪那美命二柱の生み給いし一四の島の一つ、「筑紫の島(九州)は、身一つにして面四つあり、面ごとに名あり。筑紫の国(白日別)・豊の国(豊日別)・肥の国(建日向日豊久士比泥別)・熊曽の国(建日別)という。
豊日別神は豊の国=豊前豊後の御魂として守り給う神なり。
天照大神…日の神
伊邪那伎命が橘の小門にて御禊され、左目を洗いますときになりませる神。天に坐して八紘に照り渡り給う意の御名なり。皇室の御祖神として伊勢神宮に祀られる。
天火明命…稲穂(農耕)の神(天照国照彦火明之命)
天忍穂耳之命と萬幡豊秋津師比賣命との間に生まれし神。邇邇藝命の兄神で、御名は稲穂の尊称であり、穂赤熟を意味しておられる。
火須勢理命…鎮火(火伏)の神(火燗之命)
邇邇藝命と木花之佐久夜比賣(阿多津比賣)との間に生まれし神。兄神は火照命(海幸彦)で、弟は火遠理命=穂穂出見命(山幸彦)なり。
少名毘古那命…禁厭(祈祷)医薬の神
神産巣日神の御子。御手の俣より漏れ落ちて、この中津国に降り、朝鮮の国土を治め給い、帰られて大国主命と兄弟の誓いをなし、我が国土を造り固め、禁厭医薬の道を講じて国民を救い、のち再び去りて常世国(外国)に渡り給う。
英彦山豊前坊高住神社略記
松養具榮元宮司謹述
英彦山豐前坊の名は天下の普く知る所であつて、農作牛馬惡疫火難の守護神として霊験あらたなる御神徳は誰も厚く尊信せざる者はない。乍併御祭神の事蹟や御鎮座の由來は未だ精しく知られて居らぬやうであるから御由緒の大畧を述べたいと思ひます。
豐前坊は高住神社と稱へ奉りて、英彦山の北麓豐前豐後の國境に鎭座し、豐日別命を齋き奉れる大宮であります。
社傳に繼體天皇二十三乙酉年秋(凡千三百九十余年前)「我此の磐根に居る事年久し我前を齋き奉れ永く豊國人の諸願を滿さむ」この神託を蒙りて、豐後國藤山恒雄(彦山第二世座主)神祀を創建して御鎭祭申上げたと傳へてゐます。
神世の昔天つ神は伊弉諾伊弉冊の二神に「此の漂へる國を造り固めよ」との詔を下されました。二神は詔のまにまに天地を共に窮りなく隆まさむ皇御國の礎を定めむと相謀りて、大八州國を生み山川草木を産み八百萬神を生みてそれぞれ職務を分担せしめ給ひ、二神は高天原即ち皇都に坐まして萬機の政を總攪し給ひ地方は國つ神をして民生の化育を分掌せしめられました。
此の時豐日別命は豐國(豐前豐後後元一國ニテ豐国ト云フ)開拓の重任に就かせられたのでありますが、當時の國狀は天つ神の「漂へる國」と宣ひし如く、熊襲土蜘蛛などの未開の民各地に穴居して、山野に狩獵し河海に魚貝を漁りて生食し、所謂原始の生活を營み、廣袤たる沃野は唯雑草の生茂るに委せてありました。
是に於て豐日別命は一族の神々と共に、山野を開墾し河川を浚渫して水陸の美田を開き牛馬を使役して五穀を耕作する事、木綿麻絹糸を織りて衣服を調へる事、家屋の建方など衣食住の大本を開き、叉醫藥を以て疾病を治し禁厭太占を以て災禍を除き吉凶を判ずる事をも敎へて生活に安ぜしめ、能く蒙昧の民を撫育して自から同化に勉め給ひ、遂に渾然融和して子孫相共に國中に繁榮し産業は益々興隆して萬物豊富となり豐國の美名に背かざる基を建て給ひし神德洪大なる政治産業血統の始祖の大神に坐ますのであります。
仰祖先を崇拝し神社を尊重するのは人倫の大本治國安民の要道であります。されば豐日別命の血を享け肉を分けた豐前豐後の國人が、高住神社の大氏神と仰ぎて昔も今も換る事なく尊崇し、叉豐日別命の大業を繼承せる歴代の國司領主が厚く崇敬せしも蓋し當然であります。殊に小倉藩主は高百石を奉り、毎年正五九月に代參を遣して奉幣あり。佐賀藩主は屡社殿を修造し奉りしを以て、御本殿其他の建物も整備してゐます。境内は萬仭の靑巖屏風の如く連りてその背景をなし、千古の老杉は森然として天を衝き、滾滾たる社前の淸流は自から塵心を洗ふ幽邃閑雅なる神境であります。
例祭は十月十七日、神幸祭は九月第二の丑の日、これを丑の祭と稱へ遠近よりの賽者も牛馬加幣の古式なども行はれる盛大な祭事であります。
昭和初期頃記述/現在の祭事日程とは異なります