歴史と名跡 ~古代から近代まで~


神代文字と虫札

田畑を病虫害などの災いから守るまじない札を「虫札(むしふだ)」といいます。

神社より授かった虫札を折って竹の竿先にはさみ、田畑の畦や水口に立て、害虫が退散するのを祈願するものです。

豊前坊の虫札は解読不詳で、一説には神代文字で書かれているとされ

 

 『はらひたつる ここもたかまの はらなれば はらひすつるも あらいそのなみ』 

 

という神歌を詠んだものと文献で伝えられています。

 

こうした農作にまつわる呪具は他にも“彦山がらがら”などがあり、かつて農業主体であった時代の名残として、今も受け継がれています。

毛谷村六助と豊前坊

毛谷村六助は豊前国下毛郡毛谷村(現・大分県中津市槻木)に生まれ、子宝に恵まれなかった父母が豊前坊に祈願し、七夕前日の七月六日に授かったことから六助と名づけられました。

親孝行でよく働き、また腕っぷしが強く太閤秀吉の御前相撲で三十七人抜きをしたことから加藤清正の家臣として取りたてられ、名を木田(貴田)孫兵衛統治と改めました。

文禄の役では一番槍の功名を得るなど武勇を馳せ、歌舞伎演目の題材となった『彦山権現誓助剣』で義勇厚き人物として人気を博しました。

 

近郷では豊前坊天狗から武術を教わった話や、六助が使っていたとされる鉄砲や金棒が残されるなど、郷土の英雄として親しまれています。

杉田久女と橡

 

 橡の実の つぶて颪や 豊前坊

 

豊前坊を詠んだ俳句といえば真っ先にこの句が浮かぶことでしょう。

 

杉田久女(1980-1946)は近代俳句初期を代表する俳人であり、女性俳句の草分け的存在として活躍しました。昭和6年、『日本新名勝俳句』に応募した際に帝国風景院賞(金賞)を受賞した句が「谺して山ほととぎすほしいまヽ」であり、同時に銀賞を受けたのが豊前坊を詠んだ句です。